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今津田中家に置き番傘
一般社団法人Bisui Daisen(淀江の宿 今津田中家のオーナー田中洋子と、同じく今津で簡易宿所を営む HiddenWestの大原徹さんをはじめとするメンバーが、2022年4月に設立した一般社団法人) は、「鳥取県地域づくり推進部中山間・地域交通局中山間地域政策課」の「令和5年度観光客の心に響く滞在型地域創造事業補助金」の申請を行って採択され、その企画の中で、「滞在エリア内において地域ぐるみで宿泊客を迎えるにあたっての『おもてなし』を向上させる取組」の一つとして、淀江和傘の宿での導入を決めて、淀江和傘伝承館に番傘8本の制作を依頼していましたが、2月に出来上がってきました。
淀江傘は問屋傘、番傘と言われる大衆傘が主流であり、実用性に富み、丈夫なことで有名で、戦後の傘不足の折には、年間生産量50万本にも達しました。番傘は、「唐傘(からかさ)」とも呼ばれ、日常によく使われた傘です。一般的な番傘の他に色の付いた和紙を張った「色番傘」、傘の縁に黒い和紙を張った「裾黒番傘」などがあるそうですが、今回は、シンプルな番傘を注文しました。
出来上がった傘は、HiddenWestと淀江の宿今津田中家に各4本ずつ置きます。ぜひ一度、雨の日に番傘をさして周辺を散策してみてください。雨粒が番傘の上で跳ねる音を聞きながら風情豊かで心和む贅沢な時を過ごしていただけると思います。お気軽にご利用ください。
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年間生産量50万本にも達した淀江和傘の歴史
淀江傘の起こりは、文政4年(1821年)に倉吉から淀江に来た倉吉屋周蔵が傘屋を開いたことによると言われております。そして、明治14(1881)年に津山の西金蔵が傘製造の指導に招かれたのが、淀江傘発展の糸口となりました。大正時代になると、地元の製造事業者数71軒、年間生産量17万本に達し、出荷先は県内はもとより西日本一円、遠くは関東・東北などの32県に広がりました。
淀江は、日野川の流砂が堆積した砂浜が広く、そこに一万本以上の傘を一度に干すことができたことと、良質の竹材を入手しやすい土地柄であったことも、淀江傘発展の要因だったといえます。淀江傘は問屋傘、番傘と言われる大衆傘が主流であり、実用性に富み、丈夫なことで有名であり、戦後の傘不足の折には、年間生産量50万本にも達しました。
しかし、洋傘の普及により、昭和26、27年(1951年、1952年)をピークに廃業する者が増えました。昭和51年(1976年)に淀江傘製作技術が旧淀江町の指定無形文化財に指定されましたが、昭和59年(1984年)には最後の製造業者も廃業しました。現在では、「淀江傘伝承の会」の皆さんによって、地元の竹材を使用し、1本1本の傘骨から最後の仕上げまで手作りで淀江傘の製作が行われています。
淀江傘 作成者:鳥取県 より
淀江中学校の運動会で傘踊り
淀江の宿 今津田中家のオーナー 田中洋子が中学生だった1976年から1978年の3年間、秋の運動会では、全員が浴衣を着て、傘踊りを踊るのが恒例行事でした。運動会での傘踊りは、伝統芸能を学ぶ機会の一つとして、1972年から始まったそうです。現在は浴衣ではなく、体操服で披露されているようですが、50年以上続く伝統行事となっています。
「エンヨイヤナ おらが里 今に伝わる淀江傘 サササ 江戸は末期の頃とかや 創めし人は冨田屋の善さん サア ヨイト マカセ」
という形で、神幸神事「よいとまかせ」の掛け声も織り交ぜた歌詞が続く歌に合わせて踊ります。
「よいとまかせ」
淀江地区の代神さんとして崇敬される日吉神社では毎年5月3日に米子市指定の無形民俗文化財神幸神事「よいとまかせ」が行われる。370年以上の伝統を持ち、御幸行列は、獅子舞や山車も出る200人を超える行列。先導役のかけ声「えんよいやな、えんよいとまかせ、さささ、さーよいとまかせ」は「いい世の中だなあ、さあ、もっといい世の中でありますように」との意味で、祭りそのものは「よいとまかせ」と呼ばれる。
行列は大体14:00頃始り、約3時間かけて町内を進む。
体験ができる和傘伝承館
「淀江和傘伝承館」では、県伝統工芸士 山本恵美子さんを講師に、「ランプスタンド胴張り体験」などができ、外国人の方はじめ、様々な方が体験に来られており、和風のインテリアとして活用できるためお土産にもなり、喜ばれています。
淀江和傘伝承館 淀江町淀江796 電話:0859-56-6176