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私、淀江の宿 今津田中家のオーナー 田中洋子は、年始(1月2日)開催の淀江中学校還暦同期生会で、思い出のスライドショーを披露することになり、昨年の年の瀬、お世話係のメンバーのアルバムを預かってスキャンしたり写真を撮ったりして、昔の写真をデジタルデータにする作業をしていました。
自分の写真も使おうと、2018年の母屋の片付けプロジェクトの際に、「写真類だけは捨てないで取っておいてね。」と淀江プロジェクトのメンバーに頼んで、中身をあまり確認しないまま倉庫に入れておいた写真やアルバムの数々を引っ張り出して確認する中で、幼い頃の懐かしい大量の写真の他、自分が生まれるずっと前の明治時代からの写真の数々が入った箱を発見。祖父義知は学生時代から、祖母ますよとその妹弟は尋常小学校のときから、父茂は赤ちゃんの時からの写真を父が人別に分けて名前を書いて袋に入れたものが出てきました。
父が取得して机の引き出しの中に入れていた戸籍謄本・除籍謄本の束(2018年の片付け時に発見)があったことを思い出し、引っ張り出してきて、せっかくなので、この機会に田中家のファミリーストーリー、私のルーツを今ある資料で探ってみることにしました。
今津田中家の建物ヒストリー
おぼろげな記憶も混じっているので、違う部分もあるかもしれませんが、私が幼い頃から聞いていたのは、次の4点でした。
◆私の父「茂」の父である「義知」(健三郎の長男 源太郎の長男 一人っ子) と 母である「ますよ」(健三郎の二男 又次郎の長女。弟が若い頃に亡くなり、それからは妹3人の4姉妹となる。)は、いとこ結婚。
◆義知は鳥取県で教師をしていたが、その後、東京に引っ越して生命保険会社で働いており、結婚生活は東京(現大田区)で送っていた。
◆茂は東京で生まれて6歳まで東京に住んでいたが、父の義知が亡くなった後、父母の出生地である今津に母子で引っ越してきた。
◆義知は自分が病気で命が長くないのを知り、残された妻と幼い子供たちが東京で生活するのは大変だということで、母子が困らないように、自分たち夫婦の出生地である今津のますよの実家の土地に、淀江の宿今津田中家の母屋を新たに建てた。
これらのことから推測すると、淀江の宿今津田中家の宿泊やカフェスペースのある母屋が建てられたのは、1934(昭和9)年頃で、築約90年の建物だということになります。
除籍謄本によると、今の淀江の宿 今津田中家の土地は、ますよの父 又次郎(二男)が同じ今津集落の本家(本籍地)から1896(明治 29)年8月にこの住所で分家しており、戸籍上に載っていたますよが生まれた場所も今の宿の住所となっていました。
母屋と廊下で繋がっていて現在は切り離していて、淀江プロジェクトで新たに竈や囲炉裏を併設した「江戸の間」は、母屋より建物が古い感じなのですが、もしかすると、分家したころに建てられた建物の一部が残っているのかもしれません。
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戸籍謄本・除籍謄本から家系図を作成!
父が取り寄せていた除籍謄本(戸籍に記載された人が、婚姻や死亡で全員除籍になった場合、戸籍そのものを除籍と呼ぶ)の中で、一番古いものは、戸主が1844(弘化1)年生まれの 「健三郎」で、除籍謄本には「前戸主」が1809(文化6)年生まれの「茂八郎」でその父が「次平」であることなども書いてあったので、私の父 茂・義知・源太郎・健三郎・茂八郎・次平の6世代(私のひいおじいちゃんのひいおじいちゃん)まで遡ることができました。
明治19年が現在閲覧取得できる戸籍の最古のものなので、戸籍で遡れるのは江戸時代末期までだそうです。
戸籍謄本・除籍謄本と共に父が書いたA4用紙1枚のメモ書きも残っていて、そこには、茂八郎から始まり、それぞれの生年月日、忌日、享年 が書かれていました。
また戸籍謄本・除籍謄本は、田中家に関連するものの他に、私の母 景子のものなども含まれており、それらをすべて家系図にして表してみました。
誰がどの時代に一緒に生きていたか、エクセルで表現
家系図を作っている過程で、誰と誰が同じ時期に生きていて、先に亡くなったのはどちらか・・・などを知りたくなり、マイクロソフトの表計算ソフト エクセルで年表を作ってみることにしました。縦列の1行で1年を表し、西暦・和暦・六十干支・将軍名・主なできごとなどを記載して、横列はそれぞれの人の年齢とできごとを記載していきました。
これにより、生きて来た時代背景、結婚や出産をした年齢、どちらが先に亡くなったのかなど、より深く、一人一人の人生に触れることができるようになりました。
そして、大量に出て来た写真を、エクセルで作った年表に突き合わながら、見ていきました。特に、昭和初期に亡くなっていたため、私が写真でもほとんど見たことが無かった、祖父の義知、そして、祖母ますよの弟 勘二(明治45年生 昭和7年20歳で没)の二人のそれぞれの学校(師範学校や旧制中学)の集合写真や寮での写真などの裏面には、とても丁寧な字で写真の解説や日付、自筆サインなどが書かれていて、その充実した青春時代が偲ばれ、二人の人生に思いを馳せる時間を持つことができました。
これからも追っていきたい! ファミリーヒストリー
父が集めていた謄本のおかげで、江戸時代末期までは遡ることができました。それより前の情報は寺に残っている場合があるそうですが、檀家のお寺は明治24年の淀江の大火に遭っているので、資料が残っていないかもしれません。
今回、家系図を作ってみて、いろんなことがわかり、聞いてみたい疑問がたくさん出てきました。父が戸籍を集めたであろう1990年代に詳しく話を聞いていれば、いや、その年代でなくても父が存命中に話を聞いていれば、もっといろんなことが分かったのでしょうが、今となっては確認の手掛かりがほとんどありません。が、その中でも特に下記の3人の人生、そして茂八郎・義知・勘二の人生なども、もう少し深掘りしてみたいと思っています。
家系図を作ってみて自分のルーツの一部を知り、改めて、自分の身体の中には多くの人の血が受け継がれているのだということを実感しました。
多くのご先祖様のお陰で生を受け、六十干支を一巡し、元気に還暦を迎えることができたこと、残っていた資料で自分のファミリーヒストリーを探ることができたこと、空き家になった実家を淀江の宿今津田中家として活用させていただいていること、などに感謝しながら、またこれからの人生を楽しみ、地域にも貢献していきたいと感じる時間となりました。
■健三郎 1844年(弘化1年)-1911年(明治44年)66歳没
義知とますよの祖父
<淀江町誌の掲載資料からわかったこと>
・江戸末期:松波防禦隊のメンバー(19歳の頃)
・明治時代:今津集落でのとりまとめ役(県提出資料の署名欄)
江戸から明治にかけての激動の時代をどのように生き抜いていったのか。
■とく 1866年(慶応2年)-1919年(大正8年)52歳没
義知の母
20歳で結婚→25歳で義知を出産→30歳で離婚→離婚した当日に2度目の結婚をして淀江町淀江に嫁ぐ→49歳で離婚→その半年後に3度目の結婚をして大山町豊成に嫁ぐ→約1年半後に夫が亡くなる→その約7ヶ月後に52歳で亡くなる
なぜ結婚・離婚を繰り返したのか?義知とは離婚後も交流があったのか?
■くら 1880年(明治13年)-1963年(昭和38年)82歳没
ますよの母
大酒飲みで酒代を得るために土地を売った又次郎の妻
24歳で結婚→38歳で第5子を生む→41歳の時に夫を亡くし5人の子どもを育てる→一人息子が20歳で亡くなる→再婚することなく82歳まで生きる
幼い子どもを残して夫に先立たれ、女手一つで子どもを育てたくら、そしてますよの2世代の女性。どんな苦労があったか?